Scene プロフェッショナル 野口 英一氏

KURE5-56を愛用されている各界のプロフェッショナルが語る「Scene」。
今回は日本のサーフィンの創世記を築き、現在も現役で活躍するレジェンドサーファーのひとり、映画「稲村ジェーン」のモデルともいわれる出川三千男さんです。

「海が遊び場、波乗りが遊び。
それが僕の少年時代でした。」

生まれも育ちも鎌倉の稲村ヶ崎。遊ぶといっても今のようにいろんな遊びや玩具が氾濫している時代じゃないですから、やはり家の目の前にある海で遊ぶことが多くなります。
ホントに小さい頃は、波打ち際で遊んでいる程度でしたけれど、小学校に入ると木の板でできた板子と呼ばれるブギーボードのようなもので波に乗る遊びを始めました。
さらに中学校に入る頃には、フロートという、今で言うSUP(スタンドアップパドル)の原型のようなもので遊ぶようになりました。

ちょうどその頃、横須賀や厚木、立川などにいたアメリカ人が、フィンの付いた本格的なサーフボードを持って稲村ヶ崎に来るようになったんです。

当時、貴重品のようにみんなで回し読みしていたアメリカのサーフィン雑誌で、サーフィンそのものは知っていましたが、実物を見るのは初めてでした。
それは自分たちのやっていることが、まるで子供の水遊びに思えるほど洗練されていてカッコ良かったですね。

最初は憧れの目で見ているだけでしたがだんだん仲良くなり、そうすると毎週のようにボードを持って電車でやってくる彼らが、ボードを預かってくれないかと言ってきたんです。実物のサーフボードに触れられるだけじゃなくて、乗ってもいいよと言ってくれた。それはもう夢中になりましたね!

「憧れたのは、サーフィンだけでなく
アメリカという文化でした。」

こんな言い方をすると当時の生活がサーフィン一色だったような感じですが、今にして思えばサーフィンは僕たちが興味を持っていたものの一部だったような気がします。

例えば、毎日のようにアメリカ人向けのラジオ放送(FEN)を聞いたり、みんなで回し読んだアメリカの雑誌に載っていたスイミングパンツの写真を母親に見せて作ってもらったりしたこともあります。たまたま手に入れた絵柄の入ったTシャツなんて宝物でしたから、自分で丁寧に手洗いしていたものです。

たぶん、当時の僕たちはアメリカの文化に憧れていたのだと思います。サーフィンはアメリカ文化の象徴だったのかもしれません。

稲村ヶ崎は田舎町ですけれど、他の地方の人たちが東京という大都会に憧れるように、当時の僕たちは東京を通り越してアメリカを見ていたような気がします。

「初めて使った時から、
KURE5-56のファンになりました。」

本格的にやればやるほどサーフィンは奥が深く、その楽しさにハマっていきました。そして10代の後半には、自分でボードを作るようになっていました。
自分で乗りたいようなボードがなくて、ないなら作ろう!となったわけです。物のない時代でしたから、自分で作るのが当たり前でしたので、母親にスイミングパンツを縫ってもらったようなノリでボードを作り始めました。

しかし、ボード作りに関してはなにも知識も経験もありませんでした。当時はシェーパーという言葉さえも知りませんでした。(笑)

そこでまず最初にやったのは、アメリカのサーフィン雑誌に載っていたボードの広告の分析です!
モデルがボードを持っている写真を見て、このモデルの身長がたぶん6フィートぐらいだから板の長さはたぶんこのくらい、ワイドはこのくらい。写真に細かくマス目を引いて、ここからこれくらいのカーブを付けるんだな。というような感じで自己流でやっていました。

材料も近所の建材屋さんから堅めのウレタンをもらってきたり、当時出たてのFRP(繊維強化プラスチック)がヨットハーバーにあると聞いて分けてもらったりしていました。
もちろん試行錯誤の連続でしたので、せっかく手に入れた材料を何度もダメにしたものです。

道具も、とりあえず家にある物を使っていましたが、やはりアメリカ製の物が使いやすいので、当時はアメリカ製の工具なんて日本には入ってきておりませんでしたが、なんとか探して使っていました。

この辺の地域はそういうところが不思議なんです。当時、東京で探しても見つからないような外国製品がこの辺にはあったんです。

ある時、一緒に作っていたアメリカ人のシェーパーが、ノコギリの刃や電動カンナの刃に何かスプレーをかけていました。使ってみると僕らが付けていた油とは比べものにならないくらい滑らかに削ることができたんです。
なんだこれ!と、スプレー缶を見たら「5-56」という不思議な名前が付いていました。
それからは今に至るまでずっとこれ一本ですね。

今では、すっかり日本製品として定着していますが、当時はまだ僕らも知らなくて、もしかしたら、その時にアメリカ人のシェーパーが使っていたのはアメリカのCRC社製だったかもしれないですね。

今では、日本の呉工業製としてしっかり定着しているKURE 5-56ですけれど、それでも「CRC」のロゴは外さないんですよね。
こういうところが偉いなと思います。完全に日本製になっても、ちゃんと本家へのリスペクトを忘れないんですよね。

ただ、良い物を日本に根付かせるだけじゃなくて、それを生んだ文化を大切にする気持ちがあるんでしょうね。

「文化として、楽しさとしての
サーフィンを伝えたい。」

2020年の東京オリンピックでサーフィンが正式種目になりました。第1回のサーフィン全日本大会が1966年で、前回の東京オリンピックの2年後です。その第1回から参加して日本のサーフィンを誕生から見守ってきた者としては、感慨深いものがあります。

初のオリンピックが東京ということにも特別な想いがありますね。もちろん競技ですから勝敗も大切ですけれど、せっかく東京で開催されるのですから、日本のサーフィン文化を世界に発信できればと思っています。

10代の頃からサーフボードを作ってきましたが、コンペティションに勝てることも大切ですが、とにかく乗って楽しいボードというのを目指してきました。
波に乗ることの楽しさ、それこそがサーフィンの文化なのだと思います。

1985年に自分のサーフボードブランド「ノーブランド」を立ち上げました。「何もなくていい、ただ楽しめればそれでいい」そんな想いをブランド名に込めてみました。

七里ヶ浜の目の前にあるサーフショップ「BLUE HORIZON」には、そんな僕の思いが詰まっています。
サーフボードだけでなく、サーフィンや海にまつわるすべての楽しみを提供するショップになれたらと思っています。それは、僕が子供の頃にFENやスイミングパンツ、Tシャツに感じたワクワクするようなアメリカ文化への想いなのかもしれません。

Profile

出川三千男
1950年神奈川県鎌倉市生まれ。
1968年湘南学園高等学校卒業後アメリカ留学。ハワイ海洋文化に多大な影響を受け、帰国後、サーフボード製作会社を設立。
1971年全日本アマチュアサーフィン大会優勝。国内外の多くのサーフィン大会に出場し、70年代のサーフィン文化をリードする。以後、日本のサーフィン界の草分け的存在として活躍し、現在に至る。
1990年に公開された映画『稲村ジェーン』(桑田佳祐監督)の主人公のモデルの一人とも言われている。